新天町商店街創業祭

仕事で天神まで寄ったついでに新天町商店街に寄ってくる。ちょっと前に、新聞1面をつかって真っ赤な「創業祭」の広告を出していたのでどんなもんかなあ、というのが趣旨。


●おかげさまで62周年。創業祭のごあんない
今年もこれまでのご愛顧に感謝の気持ちで、新天町創業祭を開催します。
新天町全店が割引や超目玉商品で感謝の気持ちでお待ちしています。
雨の日もぬれずに歩ける新設の新天町サンドームもご覧にいらしてください。

福岡の商業の中心といえば岩田屋、大丸をはじめとした百貨店は数あれど、今でも「新天町」というのはやっぱりひとつのブランドになっている。確かに俺らの世代になるとあんまり新天町に買い物に、ということはなくてついでに通る、といった感じなんだが、老舗が軒をつらねるというのはやっぱりいいですな。


携帯の写真なのでちょっとアレだが。
アーケードの中とは思えない気合の入り方で、路面には赤い絨毯がずっとひかれて、飾り旗もこの通り。各店の前には必ずワゴンが並び、呼び込みの店員さんがそろいの赤いリボンをつけて呼び込んでいる。衣料品、宝石、食品、どんな店でもこの様子で、歩くのが難しいくらいのお客さんだ。平日なのにね、商売の楽しい姿がここにあるわけで、歩くだけで楽しくなってきたり。
商店街と今のSCとの一番の違いは、自前で土地建物を所有している人が商店街には多く、だからこそまとまりにくい面もある、ということだと思っている。その町に対する思いいれ、というのはあれど、こうして商売のベクトルが同じ方向を向く、というのは稀有な例かもしれないなあ、とも思える。
ま、新天町、という商店街もSCのように「人工的に作られた商店街」ではあるんだが。


終戦直後、西日本新聞社の郷土再建案として商店街設立。
読売新聞の記事ではこんな記載になっている。

新天町は、博多商人の心意気から生まれた。終戦直後、闇市が横行していた天神では、ミカン一つの値段が労働者1か月の給料分。「市民に公正な価格で商品を提供するのが我々の役目」。戦災者でもあった川端商店街など老舗店主たちが立ち上がった。
 45年10月、創立準備委員会を設け、参加店舗を公募。焼けた県立高等女学校の市有地などを借り受け、年末に起工した。
 進駐軍に頼んで整地してもらった。優先株主を募っての資金調達、経営安定が望める専門店の厳選。作業は急ピッチで進んだ。構想から1年後の10月15日、新天町が産声を上げた。(略)
 駅前などに店が集まってできた自然発生的な商店街は、それぞれが土地、建物を持ついわば“城主”の集合体。しかし、新天町は一括して市有地を借り受け、63年に払い下げられて以降も、土地、建物は商店街が所有、管理してきた。「運命共同体」のシステムが結束力を生み、同時に、物件が自由に売買されることなく、風俗業などの侵入も防いできた。
(略)
新天町商店街の運営システム】創業時に大学教授らのアドバイスを受け、土地、建物の一括管理方式が採用された。商店主らが株主となっている株式会社「新天町商店街公社」と「新天町商店街商業協同組合」の2本立てで、建物は公社、土地は組合が所有。公社が土地・建物の管理を行い、組合は、宣伝などの事業を担当する。新規出店がある場合、公社、組合と二重にチェックしている。
ひとつの商店街だが、店主さんの思いを束ねている存在がそこにはあるわけで、だからこそ大型店にも今でも立ち向かっているというのはいえるのかと。あとたしかに「空き店舗がない」というのは心理的にも大きいかなあ、と思うのだ。
ちなみに、空き店舗を出さないシステム、というか新会社「新天町エステート」のフレームはこちらに詳しい。

で、やっぱりここに行き着くのだ。


従って、入店者の審査に当たっては、? 良い品を適正価格で販売する専門店で
あること ? 博多で営業実績があること ? 時間を励行すること 等を基準と
して「人を選び店を選ぶ」ことをモット−としており、その精神は50数年を経た
今日「専門店としての誇り」という形で受け継がれています。
で、今年の目玉は新アーケードの着工。従前のアーケードが途切れていた県道をアーケードで覆ってしまったもので、総工費5億円とか。件のからくり時計もおさまる開閉式の巨大なもの。ま、いるかどうかは正直商店街の人にしかわからんのでしょうが、イベントスペースになりますね。しかし道路上にも赤絨毯が惹かれていてびっくり。歩行者専用の時間帯なのでいいのか・・・