10年前の日

夜は最近やたらと早く眠くなるので、勉強するために起きたら5時半だった.そうか、アレから10年たったのか.
………
そのころ俺は毎朝大阪府内のJRの駅で尻押しのバイトをしていたので、5時過ぎにおきる癖が付いていた.その日は非番だったので、目が覚めてボーっとしていた.揺れがあったときも.

非番だったので、その日の状況は全く知らない.ただ、下鴨神社の向かい、もはや築年齢不詳(戦前であることだけは間違いない)の木造の建物は大きくきしんだ.この下宿はもう経年劣化で建物が中央にむかって屈曲しているほどの建物だったのだが、今考えるともうちょっと震源に近かったらもれなく倒壊していたかもしれない.台所で、本棚が倒れる音がした.九州生まれの俺に地震に対する耐性も備えもあるわけは無く、ただじっとしてるだけで精一杯だった.なんと長く感じただろう.
その日は大学の期末試験だったのだが、京阪間の鉄道は軒並み止まっていたが試験はあったりなかったりした.電車が止まってなんとかいったら試験中だった、といううその様な話もあったらしい.今考えると京都市内の被害はたいしたことは無く、朝のうちはみな状況があまりよくわかってなかったのだ.しばらく前に、アエラでウチの学部の図書館が「震度5で崩壊の危険」と報じられていたが、全く被害がなかったので喜んでいた程度だった.確実に崩壊しているだろうと思われた大学のこれまた築年数不明のサークル棟や西部講堂もそのまま残っていた.
9時過ぎから長距離電話は規制された.あとは…テレビで見る光景そのままだ.なすすべは無い.
翌日だったか、バイトに出かけた.もちろんJRは大阪までしか開通していない.電車も半数近くが神戸側に取り残されてしまったので、京都側でも大幅な間引きがされていた.新快速は全面運休、間引かれてやってくる快速列車は113系8連だったり、2ドアしかない117系だったりばらばらで大変混雑していたけれど、なんとか走っていた.

ただ、一番大きく違っていたこと.
バイトはいつも下り、大阪方面行きのホームに立っていた.反対側には上り京都方面行きのホームがあって、つぎつぎと朝の列車が同じように入ってきていた.普段は近くの大学の学生で一杯になるのだが、ちょうどもう休みに入っていたのだろうか、あまり学生さんはいなかった.
そのかわり、大きな荷物を持った人たちがいた.親に手を引かれた小さな子がいた.リュックサックとマスク姿の家族連れがいた.逃げてきたのか、今でも思い出す.そのあと所用で神戸に入ったときの風景と同じくらいリアルに覚えている.ボランティアにも一応行ったけど、他に出来ることは無かったんだろうか.
身近に亡くなった人もいるし、知り合いの中にも身内をなくした人も居る.そことの違いはなんだったんだろう.

やがて、少しづつ鉄道は復旧し、本数の減った列車も、「甲子園口行」という表記にも慣れてしまった.駅のソラリーにもいつのまにかそのフラップが継ぎ足された.そしてずっとたって鉄道は復旧し、俺はバイトをやめた.そういえばこの前のNHKの「プロジェクトX」は、そのJRの復旧作業だったっけな.あれはもうそんなに前のことだったんだろうか.いまでも考える.

この10年、何が変わり何が変わってないんだろう?