佐世保の事件とかについて

sa-502004-06-03

今の子供って昔の子供と違ってきてるんだなあ、というのが実感。悪口かかれたから殺しちゃった(殺意ありで)つうんだけど、友達に悪口言われたりそんなんは昔からよくある話で、どうしてそこで「殺しちゃえ」になってしまうのか?
子供を取り巻く状況も、社会も急速に変わっていってるのに、それについていくこともできないし、否定もできない。そんな閉塞感を感じるねえ。
こんな話はずいぶん昔から言われてるんだけど、「殺す」ツウ言葉、使われすぎてないだろうかなあ。知合いに保母さんいるんだけど、たとえば子供がお人形さんを投げたりするじゃないか。そうすると「お人形さん、死んじゃったよー」という先生とか結構いるんだって。もちろん「だからそんなに投げちゃいけないよ」に続くんだけど、そこで「死ぬ」という言葉を使っちゃうところにひどい違和感と嫌悪感を感じるのは俺だけだろうか。「死ぬ」「殺す」という行為が忌み嫌われるのは当然として、その言葉自体、それが象徴する世界自体が忌み嫌われる、またはすごい高みにある存在だったんじゃないか?もっと昔は?

とか思ってると、さっきYahoo!で見つけたニュース。


「テレビのドラマを見て(殺害を)やろうと思った」と供述していることが分かった。事件前日の5月31日に放映されたミステリードラマで、カッターナイフで人を殺害する場面があったという。
あにはからん。

で、子供の社会も、子供を取り巻く環境も急速に大人に近づきつつある、同化しつつあるんだろうなあ、と。夜のミステリーなんて子供のころ見せてもらえなかったけどなあ。もっと「子供の見る番組」とぁ「子供の起きている時間」と「大人の・・・」ってもっと厳然と分かれていなかった?大人も、それをうけいれてたというか、もっと「自信を持って大人」を演じていたというか。
子供は子供の世界があって、大人はそれを守っていく、そういうもんじゃなかっただろうか。気づけばネットは小学生の中にも浸透し、大人が子供の世界に、また子供も大人の世界に流入し、なんとなくまじりあってる、そんな気がする。そしてそれって絶対好ましくないと思う。だって「子供」なんですから。

結局そういう社会に誰がしたのか〜といわれると、俺ら大人なわけで、俺ら大人も「こういう社会にしたいんだけどなあ」とか置いてけぼりにして、がんばって豊かになろうと働いて、遊んで、で、いつの、まにかこういう風になってしまった、と。そりゃ小学生向けのコンテンツなんてカネになりそうだし、子供自体がコンテンツにだす金はなくても、スポンサーはつくし、親はコンテンツには「なんかこれっていかがわしげだよね」とか思って金は出さなくても、スポンサー様の洋服とかお菓子とか、そんなものならきっと金は払うだろうし、そうしてまた、だれも「いやなんか間違ってるよな」とか考える点もなく、落ち度もなくかわっていくんだろうなあ、と。
俺が親だったらどうする?
いや、俺がやってる仕事もどっかで社会を変えていってるんだけど、それはいい方向へなのか?それとも?どっちかって言うとなあ・・・