飯塚商店街ツアー・その1(永楽町商店街)

はやぶさの後も高速貨物などを見送ってから田舎町を走ること約1時間、飯塚へ。
飯塚市は約13万人、福岡、北九州、久留米に続く県内4番目の人口規模を持つ自治体で、昭和35年の19万人をピークに石炭産業の衰退とともに人口は減少を続けていたが、近年は大学などの立地でその傾向が止まってやや増加に転じているという。そして今は麻生総理の地元、として知られているところ。そんな麻生コンツェルンの中心都市、飯塚へ…

さて、鉄道で行くと飯塚と新飯塚の二つの駅がある。確か寝台列車のあかつきの一部が筑豊本線経由だった頃はどっちにも停止謝していたと記憶している、飯塚と新飯塚、どっちも旧市街からは若干遠いが、一応新飯塚が中心になる。ただ、今回は車なので直接飯塚の市街地へ。r211で下ってくるが、中心市街地でコインパーキングを探してちょっとうろうろする。結果として国道沿い、商店街のアーケードのすぐ近くにあったのだが、なるほど判りづらい。しかも商店街の中には「商店街提携駐車場」を記した地図があったのだが、車で走っている限りそのような標記がされた駐車場はなく、ああ、確かに車で商店街ってないよなあ、とふと考えた。

さて、駐車場の前には千鳥屋本店。千鳥饅頭チロリアンが生まれた地だ。


千鳥屋は1630年(寛永7年)現在の佐賀市で創業(千鳥屋グループはこのときを「創業」とする)。当時は「松月堂」といい、長崎に渡来していた南蛮菓子の製法をいち早く学び、丸ボーロやカステラを専門に作っていた。しかし原田政雄は当時筑豊炭田で賑わっていた飯塚の地に目を付け、松月堂の支店として「千鳥屋」を開いた。1939年(昭和14年)には佐賀の松月堂を閉じ、飯塚の千鳥屋千鳥屋本店とした。飯塚進出とともに考案された千鳥饅頭は、過酷な肉体労働で甘い物を必要とした筑豊炭田の炭鉱労働者の故郷への土産物として受け入れられ、同じ飯塚生まれのひよ子とともにその知名度は高まった。
大阪の千鳥屋総本家、東京の東京千鳥屋はここから生まれたともいえる。ふと見上げると商店街の中のビルには「さかえ屋」そしてまた「チロリアン」の看板が見え、飯塚は菓子の街だなあ、と改めて思い起こさせる光景だ。これと、「ひよこ」、どれも飯塚発祥の菓子だ。しかし意外とそれが宣伝されてないような気がするんだけれども。どうもイメージの沸かない街だ。

しかし、過去は20万近くの人口と長崎街道から続く長い歴史を持つ街だけ会って、旧市街はびっしりと家々が立て込んでおり、そんな中に長い長い商店街が埋め込まれているような感じだ。丁度今居るのが商店街の一番南の端に当たる永楽町の商店街のようだ。


店主の似顔絵と謎なコメントがついた看板、というか下げ幕。学生…の手かなあ。なんだか意味のわからないものも多いが、いろいろやろうとしているんだなあということだけは。
これより活気のない商店街なんていくらでもあるが、やはりここでもシャッターの下りた店舗が目に付く。ざっと2割か3割といったところだろうか(目測)。歩いている人もちらほら。

中ほどには懐かしいおもちゃや、でも子供が何人か遊んでいた。その向かいには呉服屋…と歌人柳原白蓮のミニ記念館。伊藤伝右衛門邸が公開され、大変好評というのでその関係だろうか。
この永楽町の商店街はカーブして、むこうを見通すことが出来ない。活気があるとそれはそれで面白いんだろうが、結構道幅の狭さとあいまって(もちろん商店街としては十分な広さなんだけれども)なんだか不安になる。コミュニティ広場もシャッターが下りていて、なんだか寒々としている。そうだよねえ、暖房がないというのはやはり寒いし、ベンチなんかは通路におかれているけれども暖かく座れるスペースがある大型スーパーの方がいいよなあ、ともあらためて思うのだ。




でも、店としてはやはりこういう中小の店が密集しているほうが面白いし、老舗、特徴のある店というのは面白い。カーブを曲がると、やたらと人がいる生鮮食料品のあつまった公設市場だった。