筑豊の心

研修の一環で筑豊の「田川市石炭・歴史資料館」へ.筑豊といえば、福岡の郊外といえば郊外なんだが特に目立った観光資源があるわけでもなく、なんとなく住宅地と田畑が混在しているといったイメージでわざわざ行くようなところではないと思っていたのだが、こうして改めて歴史を見てみると意外と面白い。

竪坑櫓、中にゴンドラが入っていて地底400mまで降りていくんだとか。


伊田竪坑は、三井田川鉱業所が田川開発の切り札として、1910年(明治43)に完成させました。そのため、筑豊も深竪坑時代に入り、伊田竪坑櫓は1909年(明治42)に完成しました。高さ約28.4mの鉄製で、イギリス様式のバックステイ形です。筑豊に残存する唯一の竪坑関係遺跡です。
その向こうには現在改修中でカバーのかかった大煙突が見える。これも長い間放置状態だったのを回収しているのだが、かなり経費がかかったとのこと。

なるほど、筑豊のイメージがあんまりない、観光資源になっていないのは、こういう目に見える遺構がほとんど残っていないからなんだな、と実感。ほとんど閉山後の対策事業などをする中で取り壊され、ボタ山ですらみることはほとんどない。最近になってようやく近代化遺産、という焦点があたってきたということだが、これをどうにか生かすことができないだろうか、という話をうかがうことができた。

背後を振り返ると、構内で使用されていたナローが。

三池と同じ形のえらい背が高い機関車。

坑内用の機関車、後ろにはケーブル式の機関車も。
ただ、残念なことにどれも結構痛みが激しい。今年はなんとか屋外展示に屋根をつける予算がついた、ということだが、ほとんど放置状態だ。

失われたのはこういうハード面での遺産だけではない。石炭斜陽化から50年ほど経つようになって、現在はソフト面での遺産も失われようとしているとのこと、つまり往時の話などを今のうちに保存しておかないとだれも知る人がいなくなってしまう、ということで市の方から話を伺うことができた。聞き取り調査や記録などを進めているそうだが、これらも含めた一体の遺産、という見方が今後もっと必要になるものと。
問題としては他にも「自治体間で仲が悪い」とかいろいろあるんだけれどもね。