屋号のある町


また、この辺に古くからある家は、屋号を持っている。わたしの母やそれ以上年配の世代の会話には、「桶屋」とか「エンキ屋」とか「先生ん家(ち)」とかいった屋号が出てくるが、わたしの世代にはすでにちんぷんかんぷんだ。この地区には同じ苗字の家が多かったので、こういう屋号を使って、家を区別していたのかもしれないが、なかには屋号の由来があまりわからないものもあるらしい。
西台、ってったらウチから自転車で10分くらいのところだ。引っ越してきたときは単なる都内の少し端のほう、というイメージしかなかったのだが、ウチの周りとはまた全然違う地域が広がっている。ウチの周りは川沿いに町工場が立ち並び、坂をあがると古くに開発された住宅地である常盤台が広がっているのだが、西台のほうに行くと表向きは今風の住宅地があったり、ユニクロ西松屋といった郊外型の店舗が目に入ってくる。まあその時点ですでに都内というにはちょっと、という感じなんだが、そこに古くからの豆腐屋や雑貨屋があったり、一本奥に入ると古い農家が今でもどーんと建ってたりする。ついでに大仏まであったりするんだが、それはオマケ。
そういや彼女の人がそのあたりの老人介護施設で働いてたんだが、そのときに「昔から自転車屋をやっていて、今では息子さんが跡を継いでいるおじいちゃん」とか、「隣町から本家に嫁に来たおばあちゃん」とかの話をよく聞いた。ちょっと前までは広大な畑が広がっていて、リヤカーに野菜を積んでマチ(板橋の中心まで行ったらもうマチだったとか)まで売りに行くという生活が普通だったらしい。今でもけっこう「地主さん」が多いとか。
そういう話を聞くと、なんとなく見る目も変わってくる。今や大きい幹線道路が縦横に走り、高速が掘割になって走っている地域だが、そういう風に昔からの共同体社会がひっそりと生きている。


開発進む高島平とのギャップが美しい。今や家こそ建て込んだが、やっぱり違うもんだな・・・

屋号、つうのがかつては一般的だったというのを知ったのは、かつて沖縄に遊びに行ったときだっただろうか。沖縄の地元新聞(「琉球新報」もしくは「沖縄タイムス」)を開いて読んでいくと、中面ほどに一面全部死亡広告で埋め尽くされた面がある。社葬とかばかりの本土と違ってムラ社会沖縄、普通のじいちゃんばあちゃんの葬儀に死亡広告を出すのが一般的な沖縄、この面を読むのがたいそう面白い。
・・・と探していたら、INPUT★OUTPUTというはてなダイアリーをされているid:tokoriさんのページ(03年4月21日)に行き着いたので、勝手にリンクさせていただきます。さて沖縄行ったときに当然地元紙買ってきたんだけどさてどこにおいたかなあ。
文面はまあ普通に「・・・長寿を全うし・・・」なんだが、その後ろに少なくても10人、兄弟子供その配偶者孫その配偶者曾孫おじおば・・・と名前がずらずらと続く。さすがにアメリカ、旦那が米兵なのかカタカナの名前が混じってたり、移民したのか「在ハワイ」とか「在伯剌西爾」(ブラジル、ね)とかまで続く。たしか数日間の滞在で、最高40人くらい名前が載ってるのみたぞ。誰が喪主なんだ。

話が逸れた。そのとき初めて、普通の名前の横に「屋号:○○」という形で載ってる家が多いのに気づいた訳だ。

まさか本州で、ウチの近くでそんな風習がまだひっそりと残っているとは思わなかった。
新しい人が入ってくれば苗字も多様化するし、屋号という風習は無用になって、発展的解消をしていくものなんだろう。ただ、その地域での祭とかがなくなっていく地名を主体に行われてるように、記憶の隅にでもなんとかとどめられたらなあ、と思う訳だ。
ただ、俺自治活動とかにもまったくかかわらない典型的な独身者だからなあ。豊島区だったらワンルーム税かけられる(住居者に課税される訳じゃないが)くらいの。この辺から改めないといけないのかもしれんな。